静寂と緊張感に包まれるTOEICの試験会場。その裏で、まるでスパイ映画のようなハイテク技術を駆使した大規模な不正行為が進行していました。
この事件は、単なるカンニングという枠を超え、個人の将来を左右する「スコア」という価値をめぐる根深い問題を浮き彫りにしています。
逮捕された李照北(30)とは誰?TOEIC不正事件の概要
今回のTOEIC不正事件は、組織的な「替え玉受験」が発覚したものです。その中心人物の一人とされるのが、中国籍の李照北容疑者(30)です。
静かな会場で起きた「替え玉受験」
事件が明るみに出たのは、2025年3月に行われたTOEIC公開テストでした。警視庁は、中国籍の李照北容疑者(30)を、有印私文書偽造などの疑いで逮捕しました。
報道によれば、容疑の内容は、同じく中国籍の王立坤被告(27)らと共謀し、東京・練馬区の試験会場で他人になりすまして受験した、いわゆる「替え玉受験」を行ったというものです。
警察の捜査では、李照北容疑者はこの組織的犯行において「リクルート役」、つまり不正行為の実行者を集める役割を担っていたとみられています。
李照北容疑者は知人であった王立坤被告を替え玉受験の実行役として勧誘し、不正行為の対価として報酬を支払っていたと報じられています。
発覚のきっかけと逮捕の経緯
この巧妙な計画が崩れるきっかけは、TOEICの運営団体である国際ビジネスコミュニケーション協会(IIBC)の鋭い観察眼でした。
IIBCは「以前、違う名前で受験した人物と同じ顔写真が使われている」「英語の試験会場のはずなのに、中国語が聞こえる」といった不審な点に気づき、警察に相談したことが捜査の端緒となりました。
通報を受けて警戒していた警察官が試験会場を監視していたところ、一人の男が「受験票を忘れた」と申し出て、予備の受験票に他人の名前を記入する場面が確認されました。これが決定的な証拠となり、逮捕につながったとされています。
李照北容疑者の関与は、試験中に李照北容疑者が実行役の王立坤被告に複数回電話をかけていたことから裏付けられました。これは、不正行為の進行状況を確認し、指示を与えるためのものだったと考えられます。
警視庁は、李照北容疑者の認否を明らかにしていませんが、背後にある組織的なつながりについて詳しく調べているとのことです。
謎に包まれた人物、李照北さん
事件の首謀者の一人とされる李照北容疑者ですが、その経歴や私生活については、公にされている情報はほとんどありません。
ここで注意すべきは、同姓同名の著名な人物との混同です。インターネットで「李照北」と検索すると、名古屋大学大学院医学系研究科で教鞭をとる教授や、城西大学でコーチを務める陸上競技の専門家の情報が見つかります。しかし、今回逮捕された李照北容疑者は、これらの人物とは全く関係のない別人です。
この事件は、単独犯による衝動的な不正行為とは一線を画しています。「リクルート役」「実行役」といった役割分担や金銭の授受があったことから、計画的かつ商業的な目的を持った組織犯罪であることがうかがえます。
判明した巧妙な手口は?
今回の事件で使われた手口は、これまでの試験不正のイメージを覆すほど巧妙で、テクノロジーを悪用したものでした。押収された証拠品からは、周到に準備された「スパイキット」とも呼べる装備の全貌が明らかになっています。
スパイ映画のようなハイテク機器
犯行グループが使用していたのは、市販の電子機器を巧みに組み合わせ、試験会場での使用に特化させたシステムでした。
不正の中核を担ったのが、一見すると普通の不織布マスクです。
報道によると、その内側には長さ約3cmから7cmほどの棒状の小型マイクが巧みに隠されていました。アンテナも付属しており、高い英語力を持つ「解答役」が、このマイクを通して小声で解答を読み上げることで、外部にいる協力者や別の会場の依頼者にリアルタイムで情報を送信する仕組みだったとみられています。
一方で、解答を受け取る側の依頼者が使用していたのは、耳の中に完全に隠れてしまうほど小さなワイヤレスイヤホンでした。
そのサイズは「耳カスくらい」と表現されるほどで、一度装着すれば外部から見えることはまずありません。取り出す際には、強力な磁石を耳に近づけて吸着させるという、特殊な方法が用いられていたと報じられています。
さらに、マイクからの信号を受信し、イヤホンに転送するための中継器は、装飾が施されたペンダントの中に埋め込まれていました。これにより、受験者が首からアクセサリーを下げていても不自然に見えず、通信機器の存在をカモフラージュしていました。
驚くべきことに、押収されたスマートフォンからは、これらの機器の使い方を解説する約40秒の動画が見つかりました。
動画は中国語で、「イヤホンを耳の奥まで滑り込ませる」「中継機を長押しすれば電源オンの通知音が聞こえる」といった具体的な使用方法を指示しており、この不正が誰でも手順通りに行える「サービス」として提供されていたことを物語っています。
試験中のリアルタイム連携シナリオ
これらの機器を使った犯行は、以下のような流れで行われたと推測されます。
まず、高い英語力を持つ「解答役」(今回の事件では王立坤被告)が試験会場に入り、問題を解き始めます。
解答役は、マスクに仕込んだマイクを使い、問題番号と正解の選択肢(例:「1番、B。2番、D」)をささやき声で読み上げます。
その音声信号は、ペンダント型の中継器を通じて、同じ会場または別の場所にいる依頼者の超小型イヤホンへと送信されます。依頼者は、耳元で聞こえる解答に従って、マークシートを塗りつぶしていきます。
TOEICが全てマークシート方式の選択問題であるという特性が、この手口を極めて有効なものにしていました。複雑な文章を伝える必要がなく、アルファベット一文字を送信するだけで済むため、発覚のリスクを最小限に抑えられたと考えられます。
高度化する不正ビジネスの実態
この事件は、試験における不正行為が新たな段階に入ったことを示しています。
かつては消しゴムに答えを書いたり、メモを持ち込んだりといったアナログな手法が主流でした。しかし、2011年の大学入試問題ネット投稿事件や、近年ではスマートグラスを使ったカンニングなど、テクノロジーの進化と共に手口も高度化してきました。
今回のTOEIC不正で使われた機器は、単に既存の技術を流用しただけでなく、小型化、秘匿性、リアルタイム通信という要素を組み合わせた、まさに「不正専用のパッケージ製品」と言えるレベルに達しています。
これは、個人の思いつきで行う不正ではなく、専門的な知識を持つ組織が開発・販売する、商業化された不正ビジネスの存在を強く示唆しています。
加えて、新型コロナウイルスのパンデミック以降、マスクの着用が日常化した社会的な状況を逆手に取り、マイクを隠すための絶好の隠れ蓑として利用した点も、彼らの計画性の高さを物語っています。
TOEIC不正はなぜ起きた?組織的犯行の理由や動機は?
「TOEIC不正はなぜ起きたのか」。その背景には、日本の学歴・就職市場におけるTOEICスコアの絶大な価値と、中国の熾烈な学歴社会が生み出した、歪んだ成功への渇望が存在します。
この事件は、日本特有の「需要」と、中国で育まれた「供給」が結びついた、国境を越えた社会問題なのです。
日本市場の「需要」:スコアが持つ絶大な価値
現在の日本において、TOEICのスコアは単なる英語能力の証明以上の意味を持っています。それは、希望する大学や企業への扉を開くための「金のチケット」として機能しており、その価値の高さが不正の温床となっています。
多くの大学、特にグローバル化を推進する学部では、TOEICスコアが合否に直結するケースが増えています。具体的には、一定のスコアが「出願条件」になっていたり、スコアに応じて大学独自の英語試験が「免除」されたり、あるいはスコアそのものが点数に「換算」されて評価に加えられたりします。
例えば、中央大学総合政策学部では550点以上が出願資格の一つとなり、駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部では860点以上で個別試験の英語が200点満点中190点に換算されるなど、具体的な優遇措置が設けられていると報じられています。
このような制度は、受験生にとって高得点を取得する強い動機となります。
大学入試や就職活動での「足切り」という現実
大学入試以上にスコアの価値が顕在化するのが、就職活動(就活)の場です。人気企業には数千、数万のエントリーシートが殺到するため、人事担当者はまず学歴や資格などで機械的な「足切り」を行うことがあります。
その際、TOEICスコアは極めて重要な指標となります。
一般的に、600点が履歴書に書いて英語力をアピールできる最低ラインとされ、これに満たない場合は書類選考を通過することさえ難しくなるケースがあるようです。
さらに、日系大手企業や英語を頻繁に使う職種を目指すのであれば730点以上、外資系企業やグローバル企業を狙うなら800点以上が事実上の標準となっているとも言われます。
楽天のように、入社までに800点の取得を義務付けている企業も存在します。
このように、スコアによってキャリアパスが明確に階層化されている現実が、「何としてでも高いスコアが欲しい」という切実な需要を生み出しているのです。
経済ジャーナリストの浦上早苗さんが指摘するように、大学受験や就職におけるスコアの重要性が、受験者にとって高得点を非常に魅力的なものにし、結果として不正に手を染める者たちを後押しする構造となっている可能性があります。
中国の「供給」:「超」学歴社会が生んだ背景
この不正サービスの「供給側」に目を向けると、中国の極度に競争的な社会構造が見えてきます。容疑者たちの出身国である中国は、苛烈な受験戦争で知られる「超」学歴社会であり、そこでは目的のためには手段を選ばないという考え方が生まれやすい土壌があるとも指摘されています。
中国の大学統一入試「高考」は、文字通り人生の全てを決定づけると言われるほど重要視されており、この一発勝負を乗り越えるために、社会全体が異様な熱気に包まれます。
かつての「一人っ子政策」により、親の期待と教育投資が一人の子供に集中したことも、この競争を激化させたと分析されています。
大学卒業生の数が年間1000万人を超える現代中国では、大卒というだけでは就職が困難であり、大手企業では大学院卒が応募の最低条件となることも珍しくありません。
このような「学歴インフレ」状態が、若者たちを極度のプレッシャーに晒しています。この過酷な環境は、ハイテク機器を使ったカンニングという深刻な社会問題を生み出しました。
消しゴム型の受信機や超小型イヤホンを使った組織的な不正は、高考でもたびたび摘発されており、今回のTOEIC事件で使われた手口は、まさにそのノウハウを「輸出」したものと見ることもできます。
国境を越える高額な不正ビジネス
こうした背景のもと、試験の不正代行は一つの「ビジネス」として確立されています。中国のSNSで「TOEIC」「得点保証」といったキーワードで検索すると、「800点以上保証」「目標未達なら無料」などと謳う業者の広告が堂々と掲載されているという報告もあります。
そして、その価格は驚くほど高額です。ある業者は、替え玉受験による高得点保証の価格として、日本円にして約118万円を提示していました。
この事実は、一部の人々にとって、不正に支払う100万円以上のコストと逮捕のリスクを差し引いても、偽りの高スコアによって得られる将来のキャリアや収入の方がはるかに価値が高い、という冷徹な計算が成り立っていることを示しています。
世間の反応やコメント
この組織的な不正事件の発覚は、試験の運営団体に迅速かつ厳しい対応を促し、社会全体に標準化されたテストの信頼性について大きな問いを投げかけました。
運営団体IIBCの厳格な対応
事件を重く受け止めたTOEIC運営団体の国際ビジネスコミュニケーション協会(IIBC)は、前例のない規模での調査と処分に踏み切りました。
まず、過去2年間、約200万件にのぼる全受験者のデータを精査しました。その結果、逮捕された容疑者らが申し込み時に使用した住所と同一、または極めて類似した住所で登録していた受験者が、実に803名にものぼることが判明したと発表しました。
IIBCは、この803名に対して極めて厳しい処分を決定しました。具体的には、会員規約違反として、過去に取得した全てのスコアを無効にするとともに、今後5年間にわたりIIBCが実施する全てのテストの受験資格を剥奪するというものです。
さらに、再発防止策として、試験会場での不正行為に関する警告ポスターの掲示やアナウンスを強化したほか、試験官が受験者一人ひとりの電子機器の電源がオフになっていることを直接確認する手順を導入しました。
過去の事件とエスカレートする手口
今回の事件は多くの人々に衝撃を与えましたが、試験における不正行為そのものは、決して新しい問題ではありません。
記憶に新しいのは、2022年の大学入学共通テストで、受験生が試験時間中に問題をスマートフォンで撮影し、Skypeを通じて外部の大学生に解答を依頼した事件です。
さらに遡れば、2011年には、受験生が携帯電話を使って試験問題をインターネットの掲示板「Yahoo!知恵袋」に投稿し、善意の第三者から回答を得ようとした「大学入試問題ネット投稿事件」が社会を震撼させました。
アナログなカンニングペーパーから、ネット掲示板、リアルタイムのビデオ通話、そして今回のスパイキットへと、不正の手口は明らかにエスカレートしています。
この「いたちごっこ」は、試験の公平性を維持しようとする運営側と、それをかいくぐろうとする不正者側との、終わりの見えない技術開発競争の様相を呈しています。
ネット上の様々な声
今回の事件が中国籍の人物によるものであったことから、インターネット上では特定の国籍の受験者に対する厳しい意見や、入国審査の厳格化を求める声が多数見られました。
コメントの中には「ずるい事しか考えられないのか?真面目に勉強しろや」「中国人ですが日本の法律以前に倫理観が無いので、そもそもの入国審査を厳しくする必要がある」といった、強い口調の非難も含まれています。
また、「TOEICなんて日本でしか通用しない」「対策本かじったほうがコスパタイパまし」といった、TOEICスコアそのものの価値に疑問を呈する声や、「不正して合格しても後で英語分からないのがわかりますよね」と、不正で得たスコアの実用性を問う冷静な指摘もありました。
一方で、不正行為は国籍を問わず起こりうる問題であるという視点も重要です。
2022年には、関西電力の社員(当時)が、企業の採用で使われるウェブテストで替え玉受験を行ったとして逮捕されており、日本国内でも同様の事件は発生しています。
IIBCによる803名ものスコア無効化という措置は、企業や大学にも大きな波紋を広げています。
これらの組織は、過去に提出されたスコアが本物であったかどうか、再検証を迫られる可能性があります。
この一件は、これまで絶対的な指標として信頼されてきたTOEICスコアそのものへの信頼を揺がし、採用や入試のあり方を見直すきっかけとなる可能性があります。
まとめ
今回明らかになったTOEICの組織的不正事件は、現代社会が抱える根深い問題を映し出す鏡のような出来事です。逮捕された李照北容疑者を中心とするグループが用いた、マスクに隠されたマイクや超小型イヤホンといった手口は、その巧妙さで社会に衝撃を与えました。
しかし、より重要なのは「なぜこのような事件が起きたのか」という問いです。その答えは、二つの異なる社会が持つ、強力なプレッシャーの交差点にありました。
一つは、日本の大学入試や就職活動において、TOEICスコアが個人の能力を測る絶対的な指標として機能し、「スコアさえあれば道が開ける」という状況、つまり「需要」を生み出している現実です。
もう一つは、中国の「超」学歴社会がもたらす熾烈な競争環境です。そこでは、学歴や資格が人生を左右するという強い価値観から、目的のためには手段を問わないという考えが生まれ、高度な不正サービスという「供給」が育まれてきました。
この二つの力が結びついた結果、100万円以上もの大金が動く、国境を越えた不正ビジネスが生まれたのです。
運営団体であるIIBCは、803名ものスコアを無効化するという断固たる措置を取り、再発防止策の強化を進めています。
しかし、テクノロジーが進化し続ける限り、不正の手口との「いたちごっこ」に終わりは見えません。
この事件は、私たちに根本的な問いを突きつけています。それは、人の価値や能力を、たった一つのテストの点数で測ろうとする社会のあり方そのものへの問いです。
スコアという「記号」が、本来それが示すべき「実力」から乖離し、記号そのものが目的化してしまったとき、このような歪みは生まれます。
今後、私たちは試験の公平性をいかに担保していくのか。そして、学歴や資格だけに依存しない、より多角的で本質的な評価軸を社会に根付かせることができるのか。この事件は、その重い課題を私たち全員に突きつけています。






















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